sh101's blog

シンセとラジオの40数年。

吉田初三郎とわたし。

今回はここに書き殴ってきたシンセやラジオやゴジラとはまるで無縁の話です。

ここで「吉田初三郎」の名にピンと来なかった方には、この先苦行のような文章となりますので、ご離脱いただくことをお薦めして、とっととハナシを進めさせていただきます。

唐突ですが、アタクシの出生地は愛知県犬山市大字継鹿尾字氷室です。

こんな場所です。
「氷室」の交差点あたりは北側に木曽川が通り、東西を標高200メートル未満の小山(というか断崖)に囲まれているため、ほとんど陽が射しません。そのため天然の冷蔵庫があったと言われており、地名もそこから付けられたようです。

この地区の建造物は「犬山国際ユースホステル」しかありません。何を隠そう、この辺鄙な場所こそ僕の生家だったのです。

生まれた当時、僕の両親がこのユースホステル(当時は愛知県営)で食堂の業務委託を請け負っており、その建屋の東側に相当インスタントな建築ではありましたが、離れのような家を建てておりました。
僕はそこで生まれ、5歳まで生活していたのです。

さて。もう一度地図で氷室交差点を見てみましょう。

交差点東側に緑で塗られたエリアがあります。
現在は駐車場とちょっと整備された緑地になっていますが、僕が住んでいた当時、この辺りには雑草が生い茂る中に、あばら屋がありました。

実はこのあばら屋こそ、かつて「大正の広重」と呼ばれた絵師・吉田初三郎の画室だったのです。

吉田初三郎

吉田初三郎は、大正から昭和にかけて活躍した画家で、観光名所を鳥が俯瞰するように描かれた「鳥瞰図」と呼ばれる絵を、生涯で3,000作以上手掛けました。

初三郎作品と出会ったのは、名古屋鉄道が依頼した『日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵』(昭和3年)でした。

実はアタクシ、名古屋鉄道専門の鉄ちゃんであり、特に大正から昭和初期にかけての資料を収集しておりました。
それゆえ、吉田初三郎の名はここ15年ほど親しみがあるのです。

この他、初三郎の代表的な作品は、下のアプリでも観ることができます。

初三郎ちずぶらり

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氷室にあった蘇江画室

で、『日本第一の河川美 日本ライン探勝交通案内圖』(昭和3年 犬山町役場発行)という作品に、当時の氷室の様子が描かれています。

画像が粗くて恐縮ですが、まず画像右側に「スケートリンク」があるのがわかります。もちろん昭和初期ですから天然氷でしょう。ここからも「氷室」の地名の由来がわかります。

そして画像中央に「蘇江画室」と表記された建物があります。

この位置は、現在の氷室交差点東、前述したあばら屋にあたります。
これこそが、初三郎が活動拠点としていた蘇江画室だったのです。

おそらく現在に至るまで、少なくとも100年間ほどこの氷室に住居はなく、数年に渡りこの場所で暮らしたことのある者は、吉田初三郎(とその弟子)、そして我が家しかなかったのでは、と推測します。時空を超えたご近所さんだったわけですよ、ええ。


吉田初三郎が犬山に住んだ理由

それはさておき、彼がこの地に住んだ理由ですが、京都生まれの初三郎は、上京して鳥瞰図作家として東京に画房と店舗を構えていましたが、取材で東京を離れていた時、関東大震災(大正12年)が発生します。

おそらく新聞や現地へ行った人から東京の惨状を知った初三郎は、帰京を諦めてしまいます。
それを見かねた名古屋鉄道(初代。現在は2代目)の常務が、社員の保養施設だった「蘇江倶楽部」を仕事場として提供したのです。
ちなみに「蘇江」とは木曽川の別名だそうです。

大正13年(1924)から5年ほど、この蘇江倶楽部を借りて画房である「蘇江画室」、そしてビジネスの拠点として「観光社」を設立します。
昭和4年(1929)以降は、ここからさらに東へ500メートルほど進んだ場所にあった旅館「不老閣」へ移り、昭和7年(1932)頃まで鳥瞰図を書き続けていたとのこと。

その後初三郎は画室を青森県の種差海岸へ移すのですが、その間に「観光社」を名古屋の東新町にあった陸田ビルへ移します。
実はこの陸田ビル、昭和33年頃まで中部日本放送から200メートルほど西方(東新町交差点の南西角)にありました。

中央の建物がCBC会館。この画像の右上に映る5階建てのビルが陸田ビルです。
個人的にはいろいろと感慨深いものがあります。

初三郎の残したもの・桃太郎神社

初三郎は犬山で居住する間、鳥瞰図以外にもうひとつ現存する作品を残しています。
それが桃太郎神社なのです。

鳥瞰図作りのために日本ラインを取材していた時、現在の犬山市栗栖周辺に「桃山」「猿啄城」「雉ヶ棚」、さらに極めつけは「犬山」と、桃太郎伝説にちなんだ地名や建物が残っていることを知ります。

そこで地元の支持者らとともに「日本一桃太郎会」を設立し、桃太郎伝説がこの地ゆかりのものであることを全国にアピールし、昭和5年に自ら政府に掛け合って創立したのが桃太郎神社だったのです。

これも日本ライン周辺の観光PRの一環で行われたと思われますが、そうなると吉田初三郎は現在で言うところの町おこしプロデューサー的な仕事もこなしていたわけです。
考えてみると、初三郎の興した「観光社」というストレートなネーミングも、どことなく当時の広告会社を想起させるものです。

ちなみに現在の桃太郎神社におけるランドマーク(?)となっている浅野祥雲作のコンクリートオブジェは昭和20年代に作られたものだそうで、おそらく初三郎は関与していないと思われます。

僕の人生の起点は初三郎のおかげ?

現在も犬山城をはじめ、犬山ラインパーク(現・日本モンキーパーク)、日本モンキーセンター明治村、リトルワールドと名鉄傘下で中京圏随一の観光都市となった犬山市

もし初三郎が居住していなければ、犬山市の観光施設はここまで充実したものにならなかったでしょうし、もしかするとユースホステルもなかったかもしれません。

となると、両親もここで僕を育てることはなかったでしょうし、タイミング次第ではこうした性分で、こうした仕事で、さらに今ほど健康に生活していなかったのかもしれません。

僕の人生を作った一因だったかもしれない吉田初三郎。もう少し研究を進めたいと思っています。