sh101's blog

シンセとラジオの40数年。

吉田初三郎とわたし。その2

前回は完膚なきまでにプライベートを晒しつつ、「大正の広重」こと吉田初三郎を紹介させていただいた次第ですが、今回は初三郎と愛知県犬山町(現・犬山市)観光地化の関係をあれこれ妄想してみます。

前回と重複する記述もありますが、まあニッチすぎる内容ゆえご容赦を。

初三郎と名古屋鉄道の関係

関東大震災で家と仕事場を失った初三郎に、画室として「蘇江倶楽部」の建屋を提供したのは、名古屋鉄道(初代)の常務、上遠野富之助でした。

そもそも、なぜ初三郎が名古屋鉄道からこのような厚遇を受けたのかというと、震災の起こった大正12年の初めに、名古屋鉄道の招きで「日本ライン」を訪れていたからだそうです。

日本ライン」とは、大正2年(1913年)、地理学者の志賀重昂美濃加茂市から犬山城下までの木曽川の風景に対し、ヨーロッパのライン川になぞらえて命名した景勝地で、この箇所を舟で下る「ライン下り」は犬山にとって大きな観光資源でした。

おそらく名古屋鉄道は、初三郎に日本ラインを中心とした鳥瞰図作成を依頼したのでしょう。

名鉄の犬山観光地化計画

この頃から名古屋鉄道は、日本ライン周辺を観光地にすべく、犬山において様々な投資を行っています。

まず、初三郎が蘇江画室を開いた翌年(大正14年)には、日本ラインの最下流にあたる犬山城東側一帯を「犬山遊園」として整備しました。

さらに同年、全国でも珍しい鉄道道路併用橋として犬山橋が完成。翌15年(1926)5月にはこの犬山橋の南端に犬山橋駅(現・犬山遊園駅)を開業。
さらに10月には犬山線岐阜県側の新鵜沼駅まで延伸し、岐阜や北陸方面からのアクセスも確保します。

上遠野がどこまで計算していたかは不明ですが、全国の名勝を描いていた売れっ子画家の初三郎を犬山に招き、蘇江倶楽部に住まわせたのは、まさにこのタイミングでした。

初三郎には恩義もあったのでしょうが、画室から見える日本ラインの風景をいたく気に入っていたようで、自身が率いる「観光社」の出版物には「名古屋市外犬山町日本ライン蘇江 観光社」と記載。
さらに他地方の鳥瞰図にまでこの日本ライン、そして「蘇江画室」を描きました。
このことにより、日本ラインの名は全国に知れ渡ります。

ちなみに昭和5年、名古屋鉄道は社名を名岐鉄道と変えており、昭和10年に三河地方で勢力を拡大していた愛知電気鉄道と合併し、再び現在の社名になっています。

北原白秋が記録した蘇江画室

当時、北原白秋が『日本ライン』(昭和2年 東京日日新聞)という随筆を書いていますが、ここにその一部を引用します。

遡流は氷室山の麓を赤松の林と断崖のほそぼそした嶮道に沿つて右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰でなも。」と後から赤銅の声がする。
烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石といふのださうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ。」
幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。

この「鳥瞰図を描くYさん」が吉田初三郎を指すのは明白です。
昭和2年というと、まだ蘇江画室は氷室の蘇江倶楽部にあった頃です。

ちなみに「犬帰の石門」というのは、当時氷室付近の木曽川沿いにあった岩場を指しており、犬も怖がって引き返すほど細い小道があったようです。

戦後、木曽川沿いに県道185号(栗栖犬山線)を整備する際に破壊されてしまったようです。残念。

現地を取材してみました。

ところで昨日思いつきで投稿したので、本日現地へ足を運んでみました。
昨日も掲載した、初三郎による昭和3年の氷室。

そしてこれが現在の氷室交差点。
左奥へ県道185号が伸びていますが、第二次大戦直後までこの先には人がひとり通れるほどの小道と「犬帰の石門」があったようです。

中央奥が蘇江倶楽部のあった場所と思われます。

ちなみに交差点には氷室地区の案内板がありました。
例のスケートリンクについても書かれています。おそらくこの看板奥の空き地がその跡地だと思われます。

蘇江倶楽部跡地。何やら由緒ありげな門がありました。

なんだ、国際交流村か。
ユースホステル南は1995年前後に整備されましたが、記憶ではそれ以前にこんな門はなかったと思います。
前回も書いたように、40数年前はあばら屋とボーボーの雑草しかなかった場所でした。

もしこの門や東屋がそのあばら屋の建材から作られたとしたら嬉しいんですが。

いずれにせよ、ここは今も名鉄(もしくは関連会社)の土地と思われますが、どことなく往時の佇まいが感じられます。

氷室交差点からクルマで3分程度東へ向かい、吉田初三郎ゆかりの桃太郎神社へも行ってみました。

浅野祥雲作のコンクリートオブジェがお出迎え。
前回も記しましたが、こちらは昭和20年代に作られたものとのことで、吉田初三郎の関与はなさそうです。

ガラスの映り込みで見づらくなりましたが、社務所の中には、創立に尽力した初三郎の写真も飾られていました。

今回の取材で唯一、吉田初三郎の足跡が感じられるものでした。
今後もさらなる調査をしていきます。