sh101's blog

シンセとラジオの40数年。

吉田初三郎とわたし。その2

前回は完膚なきまでにプライベートを晒しつつ、「大正の広重」こと吉田初三郎を紹介させていただいた次第ですが、今回は初三郎と愛知県犬山町(現・犬山市)観光地化の関係をあれこれ妄想してみます。

前回と重複する記述もありますが、まあニッチすぎる内容ゆえご容赦を。

初三郎と名古屋鉄道の関係

関東大震災で家と仕事場を失った初三郎に、画室として「蘇江倶楽部」の建屋を提供したのは、名古屋鉄道(初代)の常務、上遠野富之助でした。

そもそも、なぜ初三郎が名古屋鉄道からこのような厚遇を受けたのかというと、震災の起こった大正12年の初めに、名古屋鉄道の招きで「日本ライン」を訪れていたからだそうです。

日本ライン」とは、大正2年(1913年)、地理学者の志賀重昂美濃加茂市から犬山城下までの木曽川の風景に対し、ヨーロッパのライン川になぞらえて命名した景勝地で、この箇所を舟で下る「ライン下り」は犬山にとって大きな観光資源でした。

おそらく名古屋鉄道は、初三郎に日本ラインを中心とした鳥瞰図作成を依頼したのでしょう。

名鉄の犬山観光地化計画

この頃から名古屋鉄道は、日本ライン周辺を観光地にすべく、犬山において様々な投資を行っています。

まず、初三郎が蘇江画室を開いた翌年(大正14年)には、日本ラインの最下流にあたる犬山城東側一帯を「犬山遊園」として整備しました。

さらに同年、全国でも珍しい鉄道道路併用橋として犬山橋が完成。翌15年(1926)5月にはこの犬山橋の南端に犬山橋駅(現・犬山遊園駅)を開業。
さらに10月には犬山線岐阜県側の新鵜沼駅まで延伸し、岐阜や北陸方面からのアクセスも確保します。

上遠野がどこまで計算していたかは不明ですが、全国の名勝を描いていた売れっ子画家の初三郎を犬山に招き、蘇江倶楽部に住まわせたのは、まさにこのタイミングでした。

初三郎には恩義もあったのでしょうが、画室から見える日本ラインの風景をいたく気に入っていたようで、自身が率いる「観光社」の出版物には「名古屋市外犬山町日本ライン蘇江 観光社」と記載。
さらに他地方の鳥瞰図にまでこの日本ライン、そして「蘇江画室」を描きました。
このことにより、日本ラインの名は全国に知れ渡ります。

ちなみに昭和5年、名古屋鉄道は社名を名岐鉄道と変えており、昭和10年に三河地方で勢力を拡大していた愛知電気鉄道と合併し、再び現在の社名になっています。

北原白秋が記録した蘇江画室

当時、北原白秋が『日本ライン』(昭和2年 東京日日新聞)という随筆を書いていますが、ここにその一部を引用します。

遡流は氷室山の麓を赤松の林と断崖のほそぼそした嶮道に沿つて右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰でなも。」と後から赤銅の声がする。
烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石といふのださうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ。」
幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。

この「鳥瞰図を描くYさん」が吉田初三郎を指すのは明白です。
昭和2年というと、まだ蘇江画室は氷室の蘇江倶楽部にあった頃です。

ちなみに「犬帰の石門」というのは、当時氷室付近の木曽川沿いにあった岩場を指しており、犬も怖がって引き返すほど細い小道があったようです。

戦後、木曽川沿いに県道185号(栗栖犬山線)を整備する際に破壊されてしまったようです。残念。

現地を取材してみました。

ところで昨日思いつきで投稿したので、本日現地へ足を運んでみました。
昨日も掲載した、初三郎による昭和3年の氷室。

そしてこれが現在の氷室交差点。
左奥へ県道185号が伸びていますが、第二次大戦直後までこの先には人がひとり通れるほどの小道と「犬帰の石門」があったようです。

中央奥が蘇江倶楽部のあった場所と思われます。

ちなみに交差点には氷室地区の案内板がありました。
例のスケートリンクについても書かれています。おそらくこの看板奥の空き地がその跡地だと思われます。

蘇江倶楽部跡地。何やら由緒ありげな門がありました。

なんだ、国際交流村か。
ユースホステル南は1995年前後に整備されましたが、記憶ではそれ以前にこんな門はなかったと思います。
前回も書いたように、40数年前はあばら屋とボーボーの雑草しかなかった場所でした。

もしこの門や東屋がそのあばら屋の建材から作られたとしたら嬉しいんですが。

いずれにせよ、ここは今も名鉄(もしくは関連会社)の土地と思われますが、どことなく往時の佇まいが感じられます。

氷室交差点からクルマで3分程度東へ向かい、吉田初三郎ゆかりの桃太郎神社へも行ってみました。

浅野祥雲作のコンクリートオブジェがお出迎え。
前回も記しましたが、こちらは昭和20年代に作られたものとのことで、吉田初三郎の関与はなさそうです。

ガラスの映り込みで見づらくなりましたが、社務所の中には、創立に尽力した初三郎の写真も飾られていました。

今回の取材で唯一、吉田初三郎の足跡が感じられるものでした。
今後もさらなる調査をしていきます。

吉田初三郎とわたし。

今回はここに書き殴ってきたシンセやラジオやゴジラとはまるで無縁の話です。

ここで「吉田初三郎」の名にピンと来なかった方には、この先苦行のような文章となりますので、ご離脱いただくことをお薦めして、とっととハナシを進めさせていただきます。

唐突ですが、アタクシの出生地は愛知県犬山市大字継鹿尾字氷室です。

こんな場所です。
「氷室」の交差点あたりは北側に木曽川が通り、東西を標高200メートル未満の小山(というか断崖)に囲まれているため、ほとんど陽が射しません。そのため天然の冷蔵庫があったと言われており、地名もそこから付けられたようです。

この地区の建造物は「犬山国際ユースホステル」しかありません。何を隠そう、この辺鄙な場所こそ僕の生家だったのです。

生まれた当時、僕の両親がこのユースホステル(当時は愛知県営)で食堂の業務委託を請け負っており、その建屋の東側に相当インスタントな建築ではありましたが、離れのような家を建てておりました。
僕はそこで生まれ、5歳まで生活していたのです。

さて。もう一度地図で氷室交差点を見てみましょう。

交差点東側に緑で塗られたエリアがあります。
現在は駐車場とちょっと整備された緑地になっていますが、僕が住んでいた当時、この辺りには雑草が生い茂る中に、あばら屋がありました。

実はこのあばら屋こそ、かつて「大正の広重」と呼ばれた絵師・吉田初三郎の画室だったのです。

吉田初三郎

吉田初三郎は、大正から昭和にかけて活躍した画家で、観光名所を鳥が俯瞰するように描かれた「鳥瞰図」と呼ばれる絵を、生涯で3,000作以上手掛けました。

初三郎作品と出会ったのは、名古屋鉄道が依頼した『日本ラインを中心とせる名古屋鉄道沿線名所図絵』(昭和3年)でした。

実はアタクシ、名古屋鉄道専門の鉄ちゃんであり、特に大正から昭和初期にかけての資料を収集しておりました。
それゆえ、吉田初三郎の名はここ15年ほど親しみがあるのです。

この他、初三郎の代表的な作品は、下のアプリでも観ることができます。

初三郎ちずぶらり

初三郎ちずぶらり

  • Stroly Inc.
  • ナビゲーション
  • ¥360

氷室にあった蘇江画室

で、『日本第一の河川美 日本ライン探勝交通案内圖』(昭和3年 犬山町役場発行)という作品に、当時の氷室の様子が描かれています。

画像が粗くて恐縮ですが、まず画像右側に「スケートリンク」があるのがわかります。もちろん昭和初期ですから天然氷でしょう。ここからも「氷室」の地名の由来がわかります。

そして画像中央に「蘇江画室」と表記された建物があります。

この位置は、現在の氷室交差点東、前述したあばら屋にあたります。
これこそが、初三郎が活動拠点としていた蘇江画室だったのです。

おそらく現在に至るまで、少なくとも100年間ほどこの氷室に住居はなく、数年に渡りこの場所で暮らしたことのある者は、吉田初三郎(とその弟子)、そして我が家しかなかったのでは、と推測します。時空を超えたご近所さんだったわけですよ、ええ。


吉田初三郎が犬山に住んだ理由

それはさておき、彼がこの地に住んだ理由ですが、京都生まれの初三郎は、上京して鳥瞰図作家として東京に画房と店舗を構えていましたが、取材で東京を離れていた時、関東大震災(大正12年)が発生します。

おそらく新聞や現地へ行った人から東京の惨状を知った初三郎は、帰京を諦めてしまいます。
それを見かねた名古屋鉄道(初代。現在は2代目)の常務が、社員の保養施設だった「蘇江倶楽部」を仕事場として提供したのです。
ちなみに「蘇江」とは木曽川の別名だそうです。

大正13年(1924)から5年ほど、この蘇江倶楽部を借りて画房である「蘇江画室」、そしてビジネスの拠点として「観光社」を設立します。
昭和4年(1929)以降は、ここからさらに東へ500メートルほど進んだ場所にあった旅館「不老閣」へ移り、昭和7年(1932)頃まで鳥瞰図を書き続けていたとのこと。

その後初三郎は画室を青森県の種差海岸へ移すのですが、その間に「観光社」を名古屋の東新町にあった陸田ビルへ移します。
実はこの陸田ビル、昭和33年頃まで中部日本放送から200メートルほど西方(東新町交差点の南西角)にありました。

中央の建物がCBC会館。この画像の右上に映る5階建てのビルが陸田ビルです。
個人的にはいろいろと感慨深いものがあります。

初三郎の残したもの・桃太郎神社

初三郎は犬山で居住する間、鳥瞰図以外にもうひとつ現存する作品を残しています。
それが桃太郎神社なのです。

鳥瞰図作りのために日本ラインを取材していた時、現在の犬山市栗栖周辺に「桃山」「猿啄城」「雉ヶ棚」、さらに極めつけは「犬山」と、桃太郎伝説にちなんだ地名や建物が残っていることを知ります。

そこで地元の支持者らとともに「日本一桃太郎会」を設立し、桃太郎伝説がこの地ゆかりのものであることを全国にアピールし、昭和5年に自ら政府に掛け合って創立したのが桃太郎神社だったのです。

これも日本ライン周辺の観光PRの一環で行われたと思われますが、そうなると吉田初三郎は現在で言うところの町おこしプロデューサー的な仕事もこなしていたわけです。
考えてみると、初三郎の興した「観光社」というストレートなネーミングも、どことなく当時の広告会社を想起させるものです。

ちなみに現在の桃太郎神社におけるランドマーク(?)となっている浅野祥雲作のコンクリートオブジェは昭和20年代に作られたものだそうで、おそらく初三郎は関与していないと思われます。

僕の人生の起点は初三郎のおかげ?

現在も犬山城をはじめ、犬山ラインパーク(現・日本モンキーパーク)、日本モンキーセンター明治村、リトルワールドと名鉄傘下で中京圏随一の観光都市となった犬山市

もし初三郎が居住していなければ、犬山市の観光施設はここまで充実したものにならなかったでしょうし、もしかするとユースホステルもなかったかもしれません。

となると、両親もここで僕を育てることはなかったでしょうし、タイミング次第ではこうした性分で、こうした仕事で、さらに今ほど健康に生活していなかったのかもしれません。

僕の人生を作った一因だったかもしれない吉田初三郎。もう少し研究を進めたいと思っています。

ローランドからやっとアナログシンセの新機種登場。

ローランドから、久々の単体アナログ・モノフォニックシンセ発売とのニュースが届きましたよ。

この夏発売のSE-02は、Omegaシリーズでも知られるアメリカのStudio Electronics(久々に名前聞いた…)とのコラボレーションとのことで、アナログ部分はSE社、デジタル制御部分はR社が担当したとのこと。
こちらの動画では多分にMADE IN USAな雰囲気が感じ取れます。

https://www.youtube.com/embed/zYLloIcu7us

パネルを見て驚いたのは、かなりmoog的なレイアウトと、レゾナンスの名称が"EMPHASIS"と、SE社基準になっているところ。

しかもローランド製シンセでは、VAのSYSTEM-8ですら継承されていたスライダーが、とうとう全廃されてしまいました。

無論Boutiqueシリーズの新展開ということで、サイズ的に厳しかったことや、デザイン的な意図もあると思いますが、SE社と組んだ時点で、スライダーを使う想定は最初からなかったものと思われます。

肝心のサウンドですが、上記サイトのファイルを聴いてみると、3VCOだけあって「ブ」がいくつあっても足りないほどブ厚い音がしてます。
とてもBoutiqueサイズのシンセとは思えない迫力です。

「ローランドの音なのか」と言われてもなんとも答えようがないんですが、どんな老舗メーカーであれ、概ね部品どころか開発陣も生産システムも変わってしまった2010年代、メーカー名はもはやブランド以上の意味を持たないのでは、とも思います。

その意味で、このSE-02が単なるコラボ祭りに終わらず、ローランドの新しいアナログシリーズの展開になれば、と願ってしまうSH-101デビューのシンセ中年であります。

ただ、残念なのはこれだけコンパクトな筺体であれば、乾電池での稼働がベストなんですが、やはり消費電力の問題で無理だったようです。
アタマではわかっているんですが、そこはホントに残念です。

それなら、ちょっとお高くなってもしっかりした筺体の鍵盤付きシンセとしてのリリースでも良かったのかな、と。
そちらはそちらで、今もニーズは充分あると思いますので。

先日書いたように、KORG monologueを手に入れて間もないのですが、個人的にこちらの最大の魅力は電池稼働でした。
僕の場合「軽薄なシンセ好き」と揶揄されても仕方ないほど、音質の良さや拡張性以上に便利さをとってしまいます。

ただ、ほとんどフルスクラッチと言える真新しいシンセが、日本のメーカーの名でリリースされるのですから、それはとても良いことなのだと思うのです。
重ね重ねですが、このSE-02を起点に、新しいシンセの歴史が刻まれんことを強く願って、私の挨拶と代えさせていただきます。

それはともかく、AIRAどうなった?

ラジオをテキストに乗せる意味。

たまに思い出すのだけど、このブログは40代後半の男がシンセときゃっふきゃっふ戯れるだけのブログではなく、一応本業としてのラジオ界隈についても記事をアップしています。
よく忘れるのだけど。

ということで、仕事としてこういうサイトを始めました。

まぁ「番組情報サイト」と名乗ってますが、とどのつまりは自社番組をソースにしたキュレーションサイトとでも言うべきものかなと思います。
まあ今が戦国の世なら「キュレーション」というだけで抜刀に至る野武士の方々も多いと思われますが。

冷めたイヤなヤツですよ、僕は

ラジオ番組を記事化する試みは、すでに多くの東京キー局が取り組まれており、取り立てて我々のサイトが新しいわけではありません。
それどころか、構築にあたった僕ですら、1年前まで「なんで記事化なんかするんだろう」と考えておりました。

今からちょうど10年ほど前、僕の勤務先以外の全局がポッドキャストに乗り出したことがありました。ポッドキャストに手を出さなければラジオは消えてしまう、そんな危機感から始まった雨乞い祭りのようでした。

広告主のニーズとの不釣り合い、無料配信、ライブ感の喪失、そして一度始めたら簡単にはやめられない宿命。
美しく言えば「番組をより広く伝えたい制作者の熱い想い」なのでしょうが、僕は民間放送の原則から外れた自爆行為と考えていました。今もその考えはさほど変わっていません。

あの頃、僕はかなり冷めた目でこの祭りを見ていました。それに似た感覚を、記事化に対しても、実は持っていました。

俺にも夢を見せろコノヤロー

ところが、その感覚が変わったのはradikoタイムフリー、そして民放連のシェアラジオ啓蒙の開始でした。
番組の美味しいところを頭出しの上、URLというテキストベースで拡散できるシェアラジオは、業界各位にいろんな夢を見せるには絶好の仕掛けでした。

およそ2,000万のダウンロード数を誇るアプリ、radiko.jpですが、月間のユニークユーザーはその半分強。
単純に言えば、残りの半分弱のユーザーは起動しないままということになります。あたかも避難袋に突っ込まれた手回しラジオ同然に忘れられているわけです。

ツイートやフィードで話題になれば、眠ったradiko.jpを立ち上げようというユーザーも増えるはず。聴取率の調査対象にはならないにしろ、テレビが録画率をカウントするようになったご時世、それは誰かが解決するでしょう。いざとなればradikoにはアクセスログだってあるわけです。
これに期待しないラジオ関係者は皆無だったでしょう。

不満を口にすると幸せが逃げる

しかし12月にもなると「もうちょい拡散されると思ったんだがなぁ」という私感も芽生えるのです。
そこで社の幹部に「番組名とバナーだけシェアされても、わざわざクリックするもんですかねぇ」と疑問を呈したわけです。

これが翌月になって、自分の発言収穫祭やら、人との縁やら「こういうサイトを作りなさい」との特命が下りるやらで、こういうサイトを作ったということなんですね。

こういうサイトはシェアラジオをきっかけに考案した、という動機の他は、こちらで書かれたお話と趣旨は変わりません。

http://s.news.mynavi.jp/articles/2016/08/12/tfm/

あと下の記事のように、名古屋のエンタメ界が各地から注目されているというハナシもあちこちで聞いていたので、そのSEO対策としても考えてました。ホント、名古屋はエンタメ処になってるわりに情報が少ないのです。

構想時点で、エンタメのみならずネタは結構な分量があると確信していました。自局は情報番組の割合も多く、またそこそこローカルネタもあり、パーソナリティありきの番組でも日に数コーナーは時事ネタを扱ったり、専門家に取材している。
少なくともコピペで済ますメディアより、信頼度の高い、血の通ったコンテンツが多いという自負はありました。

もちろんそれを誰が書くかという問題も、なんとかギリギリで回避してきてるわけですが。

終わったものをあれこれ言える幸せ

そして広報の立場で言えば、タイムフリーとこのメディアのおかげでオンエア後番宣ができるというのが何よりも大きかったわけです。
そもそもラジオ番組はパーソナリティと放送時間以外に告知要素がないんですね。とりわけAM局の番組は、前回より面白いかどうかなんて始まるまでわからないわけです。

だからオンエア後にアタマがhotになってるスタッフが書いた放送後記では伝わり足りない、と思ってました。
いや、聴いた人には有効かもしれませんが、未聴の人にはあまりにも不親切なものが多かった、ということです。

そんなこんなで、ひとまずアクセス数のマネタイズ、タイムフリー聴取者数の営業的利用法というふたつの課題を抱えながらも、損にはならないだろうと始めた、こういうサイト。

まだ人的にも経済的にも安定してないので、僕自身がほぼ毎日1、2記事で駄文を書き殴ってますが、良かったら覗いていただけると幸いです。

monologue機能あれこれ。

さてmonologue購入から2日、寝る時間を削りながら遊んでいるわけですが、シンセサイザーってこんなに楽しかったっけ?という発見が続々と。
手弾きプレイもいいですが、monotribe同様シーケンサーとの組み合わせでこそ生きるシンセだと実感します。

さて、音作りがとてもカンタンなmonologueですが、イニシャルから作ろうとすると、時折「これ、できないのかな」という壁に当たります。
パネルのノブやスイッチがシンプルな分操作がしやすいんですが、機能まで削られてるんじゃないかと誤解してしまうケースもあるのでは?
と老婆心ながら、いわゆるTIPSを書いておこうと思った次第です。


●シーケンスのプレイ
KEY TRG/HOLDボタンを押して鍵盤を押すと、シーケンスが再生されますが、手を離すと止まってしまいます。
シーケンスを継続させたい時はKEY TRG/HOLDボタンを長押ししましょう。
もちろん押した鍵盤に追随してフレーズもトランスポーズしていきます。ただし押したトリガーで1ステップ目からスタートしますので、タイミングには要注意。

●パネル・ロード機能
音色をエディットする時、現状のノブやスイッチの位置を反映してくれる、ありがたい機能です。
SHIFTボタンを押しながらPLAYボタンを押すと、ディスプレイに“Load Panel”と表示され、音色にパネルの設定がそのまま反映して音作りが始められます。

●VCO
SHIFTボタンを押しながらVCO2のPITCHノブを回すと、半音単位でチューニングできます。

●EG
SHIFTボタンを押しながらINTノブを回すと、EGのかかり具合がマイナス方向に作用します。

LFO
SHIFTボタンを押しながらINTノブを回すと、LFOのかかり具合がマイナス方向に作用します。

●エディットモード
ポルタメントの設定やスライダーへの機能アサイン、MIDI関連などパネルにない機能はエディットモードに集約されています。

例えばイニシャルからVCFの自己発振でシンセドラムを作ろうとすると、どの鍵盤を押しても同じ音しか出ません。
そんな時はエディットモードのPROGRAM EDITに入り、8番のボタンを2回押し"Cutoff Key Track"というパラメーターを50%または100%にしてみましょう。
ま、このパラメーター、デフォルトで100%になってるといいんですけども。

あとはスライダーとパラメーターのアサインはいろいろ試す価値があります。スライダーは手を離すとバネ(?)でゼロポイントへ瞬時に戻るので、LFOのレートを100%にして一気に戻すなど、手弾きでもシーケンスでもトリッキーなプレイが楽しめます。

ま、すべてのパラメーターがパネルに出てることが理想ですけど、一方でコンパクトな魅力が失われてしまうのは悩ましいところ。
ただ、知らずに使うのはあまりにもったいないので、試奏の際はこれらの機能をアタマに入れておくとよいかなと。

詳しくはKORGのホームページから取扱説明書をダウンロードして読んでみてくだされ。

monologue買ってみた。

仕事にかまけてご無沙汰してます。

f:id:pyu-ta:20170328094219j:image

ということで、KORGの最新アナログシンセmonologueを購入しました。

昨年の秋に発表された時、正直なところピンとこなかったんですね。単なるminilogueのモノ版なのかと。

 

そもそもminilogueはポリシンセとして非常に出来がよく、同じ4音ポリのSYSTEM-1に比べ、長く弾いていても耳が疲れない心地よいサウンドが得られます。

V.A.のSYSTEM-1を使っているとよくわかることですが、単音でエッジの効いたサウンドが作れても、それでコードを鳴らすと時に不快に感じることがしばしば。

一方のminilogueではどうパラメーターを弄っても心地よくなってしまい、リードシンセとして使うにはやや押しが弱いという欠点もあったわけです。

 

だから、その単なるモノ版だとすると、あまり期待できないのかな、と早合点した次第。

ところがデモムービーのサウンドを聴くと、どうも予想と違う。気になって何度か楽器店で試奏してみた結果、こりゃ別物だなと。

 

そして、このシンセはminilogueの系譜ではなく、むしろ5年前に出たmonotribeの延長線上にあるシンセだ、と強く確信したわけです。

 f:id:pyu-ta:20170328104025j:image

凶暴なサウンドを生み出す超高速LFOもめでたく復活。ピッチ、フィルターはもちろん、波形変化(SHAPE)にも作用し、もうとにかくブリブリビリビリなサウンドが飛び出します。

またminilogueよりコンパクトになった引き換えにパラメーターが減りました。特にEGは簡素化され、新たにTARGETが設定されました。これによりスイッチひとつでサウンドを劇的に変化できます。もはやそこに音階は必要なくなり強烈なまでにmonotribe色がさらに増してきます。

 

この音源部をさらに活用できるのが16ステップシーケンサー

全てのステップがボタンとしてパネルに設置され、Volcaシリーズのように直感的な入力がしやすくなりました。

ベースフレーズに欠かせないスライド入力にも対応。またステップごとに4つまでパラメーターの変化も記録できるので、WAVESTATIONのウェーブシーケンスみたいな複雑なリズムも可能。

しかも鍵盤を押している間だけそのキーに追随したトランスポーズ再生もできちゃう多機能ぶり。もう最高です。

 

ちなみにフィルターを自己発振させたところ、音階が鍵盤に追随しなかったため「なんで?」と思ったら、エディットモードに"Cutoff Key Track"なるパラメーターがあるのを発見。

この他、ポルタメントやベロシティ設定もこちらにあるのでマニュアル必読。ただし本体に付属してないのでダウンロードして読みましょう。

 

ともあれ、これで税込み3万を切る実売価格、実に素晴らしい。

欲を言えば、あと1万高くてもいいから、ディレイもしくはmonotribeのようなリズム音源パートが欲しかったんですが…

ちなみに色はダークブルーかレッドかゴールドかで迷ってましたが、実物を見たところゴールドの質感が最高だったので即決しました。

 

 

iWAVESTATION現る。

https://www.korg.de/uploads/media/KR_Wavestation_1_571.jpg

1990年に発売された伝説のシンセKORG WAVESTATION。

4つの波形をミックスして複雑なサウンドを作ったり、異なる波形を32ステップに分けて並べてシーケンスパターンを組める、当時としてもかなり不思議なポジションのシンセサイザーでした。このテン年代なら、むしろアプリの方が相性いいんじゃないの?と思ってたら、ついに出てしまいました。

iOSアプリiWAVESTATIONのご紹介でございますぅ。 

と、ここまで書いておいてなんですが、なにぶん今朝落として10分程度鳴らしただけなので、詳しいことは書けませぬ。

KORG Gadget対応ということで、取り急ぎインスコした状況をキャプ。

f:id:pyu-ta:20161201212609p:image

ということで、続きは週末に。ご無礼します。